教養とは
「自分がどのような時代に生きているのか」を、知ることだ
だから、江戸時代の教養と、平成ネット時代の教養は違う
もっと言えば、10年前のマネジメントが、明日の管理に繋がるわけじゃない
教養を少しだけ身につけると、自分が特別な存在であるという錯覚がうまれる
だから「先生」とか呼ばれる(あるいは呼ばれた)人達の多くは総じて
アタマの痛い、勘違いが多い。
キミの会社にもいるだろ?自分が正しいと思い込んでるアンポンタンの、ひとりや二人…。
バカのまま自分だけエラいと思い込むのもいいかも?(いいわけねぇだろ)
が、もっと豊かな教養が身についてしまうと、
自分がいかにちっぽけな存在であるかがわかってしまう
これが教養をめぐる最大の矛盾だ。
この悩ましい矛盾を、どちらの方向で解いていくか
誰だって
「自分の小ささだけを理解する為に勉強するんじゃない」
矮小な自分を知らしめるのは、むしろ宗教の役割だった
神やその代弁者の偉大さを、これでもか、これでもか、というほど執拗に叩き込むのが宗教なのである
人間はおそらく、唯一「死を恐れる」生き物だ
その恐怖から逃れる為に、宗教は必要不可欠だった
死の恐怖を最小にするには、神の偉大さを最大化する(自分の小ささを強調する)のがてっとり早い。
「偉大なる神の意思として死を受け入れる」、的な…
キミの上司であり、雇い主であり、経営者であり、社長は、
とてもエラくて教養を持ち、鹿のフンほどの品格と蛙(カワズ)程度の権力を振りかざし、
しかも特別な存在で
どうしようもなく、ちっぽけだ
「もっと勇気を持とう」
『財貨を失うこと。 また働いて取り戻せばよい。
名誉を失うこと。 また挽回すれば世の人々は見直してくれるだろう。
勇気を失うこと。 この世に生まれてこなかったほうがよかったであろう。』
ゲーテの言葉である。
恋人のわがままや
職場の数多ある悪い習慣や
世の中の不条理を変えるのは
いつも小さな勇気だと思う
Fin